堀江敏幸の兆し
なにごとも起こらないおだやかな日常のなかに、ほんのわずかな亀裂が走る。その一瞬のかすかな兆しに目をこらすことで、堀江敏幸の作品は成り立っている。
パリで、あるいは東京で、見慣れた風景やモノ、人々や、言葉や、音たちのなかに、その兆しはひそんでいる。堀江敏幸がそれらの兆候に耳を澄まし、その割れ目の先に潜んでいるらしい異界のぼんやりした輪郭を私たちに伝えようとしているのが、彼の文章なのだと思う。
最新のエッセー集『一階でも二階でもない夜 回送電車Ⅱ』(中央公論新社)でも、その姿勢は変わらない。
例えば、「すいようえき」という5ページほどのエッセー。
「すいようえき、という言葉が隣の席から聞こえてきたので思わず耳をそばだてた」という書き出しで、その一編ははじまる。病院の向かいの喫茶店での会話。堀江は瞬間的にそれを「水溶液」と解するのだけれど、やがて混乱してくる。「水溶液」では話の意味が通じないのだ。
家へ帰って調べると、「すいようえき」は「水様液」だった。眼球の、光彩と水晶体の間を満たしている液。そこから堀江は、「眼とは 溢れ出る泉」というフランスの詩人の詩を思い出し、「もうひとつの世界」へと私たちを誘ってゆく。
「眼には水が溢れている。それは果てしなく遠く、果てしなく低いどこか未知の、自分のなかのもうひとつの世界から湧きあがってくる。…眼球の内側に閉ざされた『すいようえき』はそんなまぼろしの徴であり、消息なのだ」
さらに、「すいようえき」が「水曜駅」であるかもしれないという連想に飛んで、こんな一文でエッセーは唐突に終わる。「水曜駅はもうひとつの世界と私とをむすぶ窓口である」。
なんの説明もなしに、いきなり放り出される言葉の魔力にひたるのも、堀江の文章の魅力のひとつだ。この本いえば、「ないものの存在」とか「自由の拘束」といった言葉がそう。そしてそれらの言葉が、堀江の文脈をたどっていれば説明抜きに自然と納得できてしまうのも不思議だ。
ほかに「なつやかた」「跨線橋のある駅舎」「鉛筆の木」など、粒ぞろいの一冊。堀江敏幸は芥川賞を取ってしまったので、世間では小説家と思われているかもしれないが、僕には、いま、この国でいちばん上質な散文を書く書き手に思える。彼自身も参加している装幀も素晴らしい。
それにしても、彼の『いつか王子駅で』という作品が、ビル・エヴァンスの名演「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(いつか王子様が)」を聴きながら咄嗟につけられたタイトルだとは思わなかった。
<後記>以前、サイト「ブック・ナビ」に、『雪沼とその周辺』『魔法の石板』の書評を書きました。興味のある方はそちらもどうぞ。
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