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July 30, 2004

『子猫をお願い』の「いま」

高速道路の下に使われなくなった鉄道線路があり、その線路に沿ってバラックが並んでいる。ああ、アジアの風景だなと思う。

主人公のひとりが線路に沿って歩きながら、老婆に「おばあちゃん」と呼びかけて肩を寄せるのを背後から俯瞰気味に追うショットを見たとき、おや、これは考えていたのとは別の肌合いの映画だなと感じた。

『子猫をお願い』は、『8月のクリスマス』にはじまり『猟奇的な彼女』でブレークした、ソウルを舞台にした男女のトレンディーなお話だとばかり思っていた。宣伝もそんなふうだったし。ところが、これが違ったんですね。僕はそのことに、うなった。

まず、インチョン(仁川)が主舞台というのがいい。ソウルからの通勤圏にあるインチョンは港町、それも韓国の地方や、多分中国との航路があり、しかも漁港でもある港町(ソウル国際空港もインチョンにある)。だから、横浜や神戸のように欧米に顔を向けた洗練された町ではない。

映画はインチョンとソウルを往復しながら進むのだけれど、都会であるソウルと、対照的に地方都市ふうでスラムもあるインチョンのロケが見事だ。流れるような移動撮影が印象に残る。

インチョンの商業高校を卒業した5人の女性グループは、1人はコネでソウルの大企業に勤めているが(いつもルイ・ヴィトンのバッグを手に)、あとの4人はインチョンにいる。

中国系のコリアンらしい双子は、手作りのアクセサリーを路上で売っている。1人は親の経営する銭湯を手伝いながら、ボランティアで身障者の詩人の詩をタイプで打っている。スラムに祖父母と住むもう1人は、職をさがしているのだが見つからない。

ソウルにいる上昇志向の子の誕生日にプレゼントされた子猫が、次々に同級生の手に渡されてゆくかたちで、彼女らがそれぞれに抱える不安や家族の問題、5人の友情と葛藤があきらかになってゆく。

『8月のクリスマス』から『猟奇的な彼女』へつらなる韓国トレンディー映画は、1980年代に層として成立したといわれる韓国の中産階級を基盤にした映画だった。でもこの映画は、中間層(ソウルの主人公)と、その下に今も残る下層(スラムの主人公)という階層差に着目し、その緊張からドラマの主な要素を引っぱり出してきている。

日本映画に喩えれば、『桜の園』のつもりで見ていたら(古いなあ)、実は『キューポラのある街』だったんですね(これはもう、古いを通り越して映画史上の作品だね)。

階層差からドラマを取り出すたぐいの映画が、韓国では珍しいわけではない。むしろ、それがかつての韓国映画の主流だった。だからこそ、都会の中産階級のお話が新鮮で、『8月のクリスマス』が韓国でも日本でも注目を浴びた。

でも、かつての韓国映画、たとえば1980年代のイ・チャンホやペ・チャンホ監督以前だったら、この映画は涙と絶叫にあふれ、センチメンタルな音楽が鳴りひびく映画になったろう。

『子猫をお願い』は違う。主人公同士のやりとりは携帯のメールを通じてなされ、携帯の画面が字幕のように画面に表示される。ボランティアの主人公が、好きになった詩人の詩をタイプライターで打つときも、タイプの文字が字幕のように表示される。

ここでは友人同士、恋人同士のせりふや内面の声が、直に感情に訴えかけ、揺さぶる人の声ではなく、感情を抑制する働きをもつ字幕によって示されている。

さらに音楽も、携帯の着メロとして「チム・チム・チェリー」がデジタル音で流されたりし、ここでも感情を高めるようには使われていない。たしかに「いま」の韓国映画なんだな。

そのように抑えのきいた映画であるにもかかわらず(あるいは、抑えのきいた映画だからこそ)、ラストシーンで僕は不覚にも泣いた。

韓国映画の勢いを改めて確認させられる。脚本・監督は、これが処女作(信じがたい)という女性、チョン・ジェウン。

親の稼業を手伝い、最後にハッとさせられる主人公を演ずるペ・ドゥナがキュートだ。

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July 29, 2004

本橋成一の力の抜けかた

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本橋成一の写真展「生命(いのち)の旋律」(銀座キヤノン・サロン、~7月31日)を見てきた。

自分の身体を、手と足と頭脳とをまるごと使って働いている人々の肖像を、日本全国(外国もあるけど)、それぞれの営みの場所で捉えている。

いまも人手で田植えを続けている人、わさび田をつくっている人、山椒魚の漁師、昔ながらの船大工、干潟を守る人、細々と林業をやっている人、家内工業でバッグをつくっている一家、ダムに沈む村で子守歌を伝承しているおばあさん……。かつての日本ならどこにでもいた、当たり前に暮らしている人たちだ。

そういった人たちが働いている現場の後ろには、青い海が広がっていたり、雪に白くなったブナの森が広がっていたり、狭い谷に清流が走っていたり、窓の外に木造の町屋が見えたりしている。

そんな場所と人たちを、本橋成一は何の技巧もこらさず、ごく普通に撮っている。

いや、こういう言い方は正確じゃない。むろん、大変な技術に裏打ちされているのだけれど、「ドキュメンタリー」や「報道写真」が持っている暗黙の約束事--テーマを構図によって強調するとか、場をさりげなく演出するとか、見る人のヒューマニズムに訴える瞬間や表情を狙うとか--から自由であることが、結果として、なんでもない写真に見えるのだろう。

新聞の日曜版連載という条件からか、本橋が得意とするモノクロではなくカラーであることも、そうした印象を強めている。

「生命の旋律」はこれまでの本橋の頂点をなす作品、チェルノブイリ原発事故で汚染された村を静かに見つめた『無限抱擁』『ナージャの村』と比べても意味がないけれど、その2冊を経たの後の力の抜けかたがうまく生かされた仕事だと思った。

このところ、彼がつくった『ナージャの村』『アレクセイと泉』という2本の映画が国際的にも評価され、本格的な写真の仕事はひと休みのようだけど、本橋成一の写真をもっと見たい、と感じさせる。

<注>秋以降、札幌、大阪、名古屋などのキヤノン・サロンを巡回。同名の写真集も毎日新聞社から出ている。


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July 28, 2004

堀江敏幸の兆し

なにごとも起こらないおだやかな日常のなかに、ほんのわずかな亀裂が走る。その一瞬のかすかな兆しに目をこらすことで、堀江敏幸の作品は成り立っている。

パリで、あるいは東京で、見慣れた風景やモノ、人々や、言葉や、音たちのなかに、その兆しはひそんでいる。堀江敏幸がそれらの兆候に耳を澄まし、その割れ目の先に潜んでいるらしい異界のぼんやりした輪郭を私たちに伝えようとしているのが、彼の文章なのだと思う。

最新のエッセー集『一階でも二階でもない夜 回送電車Ⅱ』(中央公論新社)でも、その姿勢は変わらない。

例えば、「すいようえき」という5ページほどのエッセー。

「すいようえき、という言葉が隣の席から聞こえてきたので思わず耳をそばだてた」という書き出しで、その一編ははじまる。病院の向かいの喫茶店での会話。堀江は瞬間的にそれを「水溶液」と解するのだけれど、やがて混乱してくる。「水溶液」では話の意味が通じないのだ。

家へ帰って調べると、「すいようえき」は「水様液」だった。眼球の、光彩と水晶体の間を満たしている液。そこから堀江は、「眼とは 溢れ出る泉」というフランスの詩人の詩を思い出し、「もうひとつの世界」へと私たちを誘ってゆく。

「眼には水が溢れている。それは果てしなく遠く、果てしなく低いどこか未知の、自分のなかのもうひとつの世界から湧きあがってくる。…眼球の内側に閉ざされた『すいようえき』はそんなまぼろしの徴であり、消息なのだ」

さらに、「すいようえき」が「水曜駅」であるかもしれないという連想に飛んで、こんな一文でエッセーは唐突に終わる。「水曜駅はもうひとつの世界と私とをむすぶ窓口である」。

なんの説明もなしに、いきなり放り出される言葉の魔力にひたるのも、堀江の文章の魅力のひとつだ。この本いえば、「ないものの存在」とか「自由の拘束」といった言葉がそう。そしてそれらの言葉が、堀江の文脈をたどっていれば説明抜きに自然と納得できてしまうのも不思議だ。

ほかに「なつやかた」「跨線橋のある駅舎」「鉛筆の木」など、粒ぞろいの一冊。堀江敏幸は芥川賞を取ってしまったので、世間では小説家と思われているかもしれないが、僕には、いま、この国でいちばん上質な散文を書く書き手に思える。彼自身も参加している装幀も素晴らしい。

それにしても、彼の『いつか王子駅で』という作品が、ビル・エヴァンスの名演「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(いつか王子様が)」を聴きながら咄嗟につけられたタイトルだとは思わなかった。

<後記>以前、サイト「ブック・ナビ」に、『雪沼とその周辺』『魔法の石板』の書評を書きました。興味のある方はそちらもどうぞ。


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July 26, 2004

アルルからパリへ

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ブログを再開します。

アルルからパリへ、10日ほどの旅をしてきました。「マイ・フォト」に写真をアップしましたので、ご覧ください。感想などお聞かせいただければ嬉しいです。

普段は銀塩カメラを使うのですが、ブログを始めてから、デジカメを持ち歩くようになりました。シャッターを押してから実際に切れるまでのタイムラグの大きさが腹立たしく、スナップショットには全く不向き。また電池の寿命の短さにも泣かされます。なんとかならないものか。ま、最新の高価なデジタル一眼レフを買えばいいんでしょうけどね。

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July 15, 2004

10日ほど休みます

明日から10日ほど、旅に出ます。

ブログを始めたばかりなのに、せっかく訪れてくださった方々、ごめんなさい。ノートパソコンも携帯も持っていかないので、更新できません。

28日には再開できると思います。

管理人敬白

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3W

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南米の、ある国の大使公邸へ出かける機会があった。閑静な住宅地のなかの、ドアも床もオーダーメイドされた高級マンション。

小さなパーティーで、料理も金のかかったものではなかったが、お国の料理が美しい盛りつけで供された。ケーキをカットしてくれた男性は、日本に来て10年になるという。

「私たちの国は3つのWで有名です。weather, wine,それに women。ねっ?」

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July 14, 2004

黄昏どき

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仕事を終えて外に出ると、まだ空が青いのがうれしい。刻々と暮れてゆき、灯りがつきはじめるこの時刻が、街はいちばん美しい。

さて今日は、どこの酒場へ行こうか。

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ジェリ・アレンのスタンダード

ジェリ・アレンのピアノが好きだ。特に自分のなかのエネルギーを掻きたて、元気になりたいときに、魔法みたいに効く。そういうときにかけるのが、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)と組んだ『トウェンティ・ワン』(somethin'else)。

もともとフリー系のピアニストで、そっち方面のミュージシャンと組むことが多かったけれど、この盤は珍しく元マイルス・クインテットの2人の巨匠とのトリオ。これも珍しくスタンダードを12曲中6曲も演奏している。

「ララバイ・オブ・ザ・リーブス(木の葉の子守歌)」が泣かせる。日本人好みのマイナーの曲で、一度聴けばすぐ覚えてしまう哀感あふれるメロディー。名曲「ララバイ・オブ・バードランド」にしろ、子守歌というのはなんてジャズとなじむんだろう。

これをジェリ・アレンは、センチメンタルなところのまったくない音で弾く。ジャズでよく言う「粒立ちのいい音」とは、こういう音を言うのだろう。1音1音がくっきりと立ち上がり、聴く者に突きささる。基調として流れるマイナーなメロディーと、ポキポキした彼女独特のフレーズがブレンドされたアドリブが、いかにもジェリらしい。

そういえば、映画『カンザスシティ』に出た彼女が弾いていたのがこの曲だった。

モンクの曲「イントロスペクション」もたまらない。もともとジェリはモンクが好きで、ポール・モチアンのアルバムに参加した「オフ・マイナー」とか、ラルフ・ピーターソンのアルバムの「ベムシャ・スイング」とか、何度聴いても鮮やかなアドリブで興奮させてくれる。

ここでも、ロン・カーターとトニー・ウィリアムスのオーソドックスかつパワフルなサポートを得て、ジェリは気持ちよさそうにスイングしてる。『ジェリ・プレイズ・モンク』なんてアルバムを、どこかつくってくれないか。

誰もがメロディーを知ってる「ティー・フォー・ツゥー(2人でお茶を)」は、最初から最後まで、すごいスピードで弾ききる。以前、マッコイ・タイナーのライブに行って、人間業とは思えない驚異的な早さに驚いたけれど、この曲の彼女もどんな指使いをするのか、見てみたい気がする。

「イフ・アイ・シュッド・ルーズ・ユー」も、ジャズ・ファンなら必ず聴いたことのある曲。くちずさみたくなるようなメロディーだけれど、ちっともべたつかないのが彼女らしい。

この歳になると、ばりばりのフリー・ジャズはちょっとしんどい。ジェリがよく組むのはフリー系のポール・モチアン、チャーリー・ヘイデンだけれど、このトリオは、よほどこちらにエネルギーがないとCD1枚を聴き通せない。

だから、オーソドックスで、しかも名人級のミュージシャン2人と組んだこのアルバムは、気持ちよく聴けて、しかもジェリの個性が輝いている。トニー・ウィリアムスの轟くようなドラムの嵐のなかで、ジェリの抜き身の刀がぎらりと光るようなアドリブの瞬間が好きだ。

最近、ジェリの新譜が出ない。癒し系のピアノ・トリオ全盛のなかで、彼女のようなピアノは敬遠されているのだろうか。それとも、結婚し、子供を産んで、活動自体が活発でないのか。ちょっと寂しい。


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July 13, 2004

ホームからの眺め

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山手線には40年以上、乗っている。その間、東京の街は激変したけれど、山手線のホームから見た駅周辺の眺めは、そんなに変わっていないように思う。ビルが建てかわってはいるが、街そのものの変化は意外に少なく、駅前には戦後の雑然とした風景が残っているところも多い。

ところがこの数年、大崎、品川、新橋と駅周辺が再開発されて、ホームからの眺めが一変した。ふと気づくと、何十年も使ってなじんでいるはずのホームからの眺めが脳内の記憶と一致せず、別の駅に降りてしまったかと、一瞬、愕然とする。

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July 10, 2004

『スイミング・プール』のランプリング

女優で見に行く映画がある。要するに単なるミーハー。最近ならミシェル・ファイファーとレニー・ゼルウィガー。あんまり面白そうな作品じゃないなと思っても、カミさんに馬鹿にされながら(特にゼルウィガーは)映画館に出かける。

かつてはシャーロット・ランプリングもそんな女優だった。もっとも、70年代に彼女が出ていた映画は傑作、名作ぞろい。

『地獄に堕ちた勇者ども』で、その退廃の魅力にはまり、『愛の嵐』で、ユダヤ少女のランプリングが小さな胸を見せてナチスの制帽をかぶって踊る倒錯的なシーンに衝撃を受けた。『愛の嵐』のラストで、ガラスの破片で血塗れになったランプリングがにっと微笑むあたりは、今でも思い出すとぞくっとする。

その後も『蘭の肉体』とか『さらば愛しき女よ』とか、男を破滅させる女をやらせて天下一品。僕らより1世代、2世代上の映画ファンにとって、ファム・ファタールといえばリタ・ヘイワースやラナ・ターナーだろうが、僕の世代にとってファム・ファタールといえばシャーロット・ランプリングにとどめを刺す(今の若い子たちのファム・ファタールは誰なんだろう?)。

80年代の『エンゼル・ハート』『マックス・モン・アムール』あたりまで彼女を追いかけたが、その後はご無沙汰してしまった。数年前、『まぼろし』で久しぶりに再会した。

『スイミング・プール』は、『まぼろし』と同じフランソワ・オゾン監督の作品。ランプリングは、イギリスのミステリー作家を演ずる。さすがにファム・ファタールの神秘のオーラはなく、落ち着いた大人の女(もう60歳近いはず)。

しかも、相手役のフランスの若い女(リュディヴィーヌ・サニエ)が性的に奔放なのにイライラするインテリのイギリス女という役どころで、これがまた絶妙の演技。うまいとは思うが、かつてのミーハーとしては、ちょっと悲しい。

もっとも、映画の後半、ランプリングが作家として若い女に興味をもち、彼女の日記を盗み見て小説を書きはじめるあたりから、女としての魅力を感じさせるショットがいくつも出てくる。過去を語る若い女をじっと見つめたり、彼女が引きずり込んだ男に惹かれてゆく表情などは、かつてファム・ファタールであったランプリングを思い出させて嬉しい。

作品としては、なんというか、古風な映画。『まぼろし』もそうだったが、いかにもフランスふうの心理劇といったつくりだ。途中から、話が現実なのか、ランプリングが書く小説のなかの出来事なのか分からなくなってしまうあたりがミソ。プロヴァンスの美しい風景も堪能できる。

スイミング・プールで一糸まとわず泳ぐ若いサニエに対して、ランプリングは、とても歳とは思えないヘアヌードも披露する。その役者魂に脱帽。


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ウインドー

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ウインドーのディスプレイをしている彼女自身がマネキンになっていた。

この後、野球帽に半ズボン、サンダル履きのおじさんが通りかかって、彼女をじっとながめていた。しばらくして彼女はおじさんの視線に気づくと、表情ひとつ動かさずにウインドーの奥へ引っ込んでしまった。

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July 09, 2004

野生化

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路地の入り口に紫色の花が咲き乱れていた。デュランタという外来種。ちょうど家の人が外へ出てきたので聞くと、鉢植えを買ってきたのが、放っておいたらこんなに大きくなってしまったという。

ガーデニング用のこじんまりした鉢植えが、手をかけないとどんどん野生化していく。この国はまだそんなエネルギーを育てる環境を持っているのだと、これは大げさな感想かな。

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July 08, 2004

『決定的瞬間』の呪縛

大学病院へ何回か通うことになった。朝一番に出かけて、診てもらえたのは夕方、それも5分なんて話を聞くから、覚悟して、前から気になっていた今橋映子『<パリ写真>の世紀』(白水社)を持ってでかけた。本文、注など合わせて600ページを超す大著。

1回目は診察まで4時間待ち。2回目は5時間待ち。順番が気になったり、隣の病気自慢に思わず耳をそばだててしまったりするけれど、他にすることもないから、読書空間として悪くはない。行き帰りの電車も含めて、3分の2ほどを読んでしまった。

アジェにはじまり、ケルテス、ブラッサイ、ドアノー、エルスケン、カルティエ=ブレッソンなどの<パリ写真>の系譜を、仲間であり、写真集の共作者でもあったジャック・プレヴェールら文学者とのかかわりで読み解いた意欲的な本。

本筋について触れる余裕も力もないが、カルティエ=ブレッソンの有名な写真集『決定的瞬間』のタイトルをめぐる考察が面白かった。

『決定的瞬間(The Decisive Moment)』という言葉は、もともとフランス語原版ではなく、英語版のタイトルだった。フランス語のタイトル“Images a la Sauvette”は英語版タイトルとはニュアンスが違うという指摘はこれまでにもあったけれど、著者は新たな解釈を示して、これは『不意に勝ち取られたイマージュ』という意味だという。

『決定的瞬間』というタイトルは、(詳しい説明は省くが)フランス語原題のラディカリズムや曖昧さを覆い隠し、「空前絶後のシャッター・チャンス」という分かりやすい一方向へと読者を誘導してしまう。そしてそれは英語版の監修者が意図的にやったものだった。

確かに、「決定的瞬間」という言葉があまりにも有名になってしまった結果、僕たちはカルティエ=ブレッソンの写真を、作品そのものを見る以前にその言葉にしばられ、「決定的瞬間」という方法の成果として見てしまう。いまの感覚からすれば、ちょっとできすぎじゃないの、などと思ったりする。

もう一度、カルティエ=ブレッソンの写真を、「決定的瞬間」という言葉から離れて見直してみよう。

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July 07, 2004

スティーブ・キューンの「シャレード」

ピアノ・トリオが全盛だ。かくいう僕も、ピアノ・トリオを愛するひとり。毎月、新作のCDが何枚も発売されるから、つい買ってしまう。僕は新しいCDを買うと、ともかく1週間、毎日聴くことにしているけれど、なかには1週間ももたず飽きてしまうものもある。

そのなかで、2年前に買ったにもかかわらず、いまだによく聴くのがスティーブ・キューンの「シャレード」。キューンは、いま僕がいちばん好きなピアニストで、「シャレード」は彼が演奏するスタンダードのなかで、いちばん好きな曲だ。

『ワルツ』(VENUS)という2枚組(別売)のアルバムに入っている。『ワルツ』は「レッド・サイド」と「ブルー・サイド」に分かれていて、それぞれ9曲のうち8曲が同じ曲という構成。大胆というか、ずるいというか。

なにが違うかといえば、ベーシストが違う。「レッド」はエディー・ゴメス、「ブルー」はゲイリー・ピーコックという対照的な2人。ベーシストによって、トリオの演奏が同じ曲でこんなに変わるの? という驚きがこのアルバムの狙いであり、面白さでもある。

ヘップバーン主演の映画音楽の有名なテーマがピアノで演奏された後、ベース・ソロに入る。エディー・ゴメスのベースは、ゆったりと心地よくスイングしながら情感を盛り上げてゆく。ゲイリー・ピーコックのベースは、ペースを崩さずに淡々と自分の世界を紡ぎだしてゆく。

だから、ベース・ソロの後のピアノのアドリブの入りが、最初の音からして違う。「レッド」は、既に感情が高まっている。「ブルー」は、抑え気味。ゴメスのベースは、キューンの音を支え、ピアニストの情感をさらに挑発してゆく。ピーコックのベースは、キューンの音に距離を取りながらからみつき、ピアニストを煽ることをしない。

「レッド」の「シャレード」は、だから熱い。「ブルー」の「シャレード」は、冷たい官能、とでもいうべき美しさを湛えている。

こんな変化のあるプレイができるのも、もともとキューンがフリー・ジャズ的なアルバムも出してきた(あるいは本来そっちの)プレイヤーだからだろう。その音は、ECMの一連のアルバムで聴ける。

「レッド」にしろ「ブルー」にしろ、キューンの弾くスタンダードはよくスイングし、エモーショナルだけれど、ノリのよいジャズに時々あるように、繰り返し聴いていると飽きるということがない。そのようなキャリアをもっているミュージシャンだから、アドリブが常套句にならず、難しいことをやっているわけではないのに新鮮な音が次々繰り出されてくるのだと思う。

僕は、何かをしながら聴くときは「レッド」をかけ、じっくり聴きたいときは「ブルー」を選ぶことが多い。はじめての人には、「レッド」がお薦め。


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July 06, 2004

緑青と植木鉢

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しもた屋の2階。歩いていたら、銅葺きの壁の緑青と植木鉢の花の色が目に飛び込んできた。開けたガラス戸からのぞく簾といい、この家に住まう人の暮らしの美意識を感ずる。

窓の上に張られた2本の板は、かつて商売をしていたとき、ここに看板がかかっていたのだろう。広い通りに面した商店街。なんの商いをしていたのだろうか。

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July 05, 2004

台風の記憶

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画像アップははじめてなので、テストです。

2週間ほど前、台風6号が西日本に上陸した日の汐留の空。

電通ビルは東西南北、見る方向によって全く表情が異なるユニークなビルだ。この角度からは、鋭いエッジをもった刃のように見える。

ビルの谷間は猛烈に風が強く、カメラを構えても静止できない。エッジの先端が切れ、ブレてしまったのもそのせい。低い雲がビルの上層部をかすめて走り、空の色も刻々と変化する。台風の日は、いくつになっても心が騒ぐ。

これからも、気になる風景、好きな風景をアップします。

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懐かしい誤植

松山巌『建築は ほほえむ』(西田書店)を読んでいて、珍しい誤植をみつけた。20世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエの言葉を引用して、「『住宅は住むための機械』だと語った」という部分の「語」の字が、90度横倒しになっていたんですね。僕は懐かしくて、ついにっこりしてしまった。

かつて、ほとんどの文字が活版で印刷されていた時代には、ある文字が横倒しになったり引っくり返ったりするのは、植字工が1文字1文字、活字を拾って組み込む作業のなかで生まれる、ごくありふれた誤植だった。

その後、活版は姿を消し、電算写植やDTPの時代になったが、いまのシステムでは、ある文字を90度横倒しにするのは、意図的にそうする以外にはまずありえない。だから、文字が横倒しになったり、逆さまになったりする誤植はほとんどなくなった。その代わり、知らないうちに別の文字や記号に化けている別種の誤植は増えたが。

ということは、この本はどうやら活版で組まれているらしい、のですね。大手の印刷会社はもとより、美しい活版活字で有名な印刷会社も何年か前に電算写植に転換したという話を聞いているから、どこかの町工場のような印刷所にわずかに残っている活版で印刷したのかもしれない。

そう思ってみればこの本は、本文の書体ばかりでなく、装幀、造本、紙など細部にわたって、色んな工夫が凝らされている。そのあたり、内容ともども、いずれbook-naviのサイト(LINKS参照)で書評してみようかな。

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July 04, 2004

「21グラム」の風景

「21グラム」は、ずしんと重い映画だった。

まず、3人の役者がすごい。

心臓病で死を待つばかりの大学教授という役どころのショーン・ペンは、移植手術で九死に一生を得た自分の心臓の元の持ち主を探しはじめる。抑えきれない好奇心から、もらった心臓の元の持ち主である弁護士の妻に近づき、迫る。男のエゴと悲しみを感じさせて、いま、こんなにうまい役者はいない。

亡くなった男の妻はナオミ・ワッツで、交通事故で夫と子供を失った悲しみと、家族を轢き殺した男への復讐心と、近づいてきたショーン・ペンに惹かれる気持ちとの間で、ちりぢりに揺れ動く。郊外のモーテルでのショーン・ペンとナオミ・ワッツのベッドシーンは白昼の光にさらされ、ざらざらした感触の映像がうそ寒い。

ベニチオ・デル・トロが、家族を轢いてしまった前科者を演ずる。彼は前科を悔いて、教会のために働いている。「トラフィック」でこの役者を好きになったけれど、ここでも激しすぎる内面を寡黙な身振りにつつんで、自らを滅ぼしたいという衝動に突き動かされ、いつ爆発するか分からない不発弾のような男を演じている。

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウの演出が斬新だ。

最近、注目されているメキシコの若い監督だが、物語の時間をばらばらにしてつなぎ、ラストシーンにあるはずの映像が最初に来たりする。かつて、ヌーヴェルヴァーグの時代にはよくあった話法だけれど、ハリウッド映画が世界を席巻したこの頃では珍しく、ある種の懐かしさと新鮮さを感じた。

もっとも脚本に関しては、3人がこんなふうにもつれあう現実にありそうもない設定をすれば、話がいよいよ濃くなるのは目に見えている。いささか反則技という気がしないでもない。

僕がこの映画でいちばん心に残ったのは監督の映像感覚であり、舞台となるアルバカーキの町とニューメキシコの砂漠だった。

ニューメキシコといえばラスベガスやサンタフェが有名だが、アルバカーキが舞台になった映画は記憶にない(西部劇であったかもしれない)。

ショーン・ペンとナオミ・ワッツが住む、アメリカのどの都市こもありそうな郊外の高級住宅地。ベニチオ・デル・トロが住むヒスパニック系住民が密集する街区と、チャントが鳴り響く教会。家を出たデル・トロが働く、砂漠のなかの石油採掘(?)現場とモーテル。

それらが粒子の粗い映像で捉えられ、ぞくぞくするリアリティーを醸し出す。映画の最初と最後に、何の変哲もない街角の工事現場の同じ風景が二度、映しだされる。そのざらっとした感触が記憶に残る。

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July 03, 2004

イリアーヌの風

このところ毎朝、イリアーヌ・イライアスの『ドリーマー』(BMG)を聴いている。朝起きるとまずCDをかけて、顔を洗ったり食事の支度をしたりする。それが一日の気分を決めたりもするから、けっこう大事な「儀式」。

イリアーヌはブラジル生まれのピアニスト、ヴォーカリストで、このアルバムでもブラジルのミュージシャンと組んでいる。すると、50年代の映画音楽も60年代のポップスも、みんなボサノヴァになってしまうから不思議。

もちろんアントニオ・カルロス・ジョビンの曲も入っていて、はじめから終わりまで、まろやかに熟した果実のようなヴォーカルに、ゆったりした風を感じる。

2曲だけ参加しているマイケル・ブレッカーも、いつものごりごりした音ではなく、ボサノヴァのリズムに柔らかなテナーをのせている。だから、気分は夏の先取り。

イリアーヌのアルバムを買ったのは、91年の『プレイズ・ジョビン』(somethin'else)以来、十数年ぶりのことだ。このアルバムはエディー・ゴメス(b)、ジャック・デジョネット(ds)の強力メンバーとトリオを組んでいたから、ボサノヴァの名曲を素材にした本格的なジャズだった。そのなかで1曲だけ、イリアーヌは素人くさいヴォーカルを披露している。

それが今では、どちらかといえばヴォーカル主体になってしまった。ダイアナ・クラールとか弾き語り全盛だから、彼女もその流れに乗ったということか。そういえば、世界的なベストセラーになったクラールの『ザ・ルック・オブ・ラブ』(VERVE)同様、このアルバムにもストリングスが入っている。

最近のクラールのアルバムではピアノは添えものだけれど、イリアーヌはピアノもしっかり聴かせてくれるのがいい。いかにもブラジル生まれらしい、軽快で心地よい音。

ジャケットがイリアーヌのスナップショット的な顔のアップで、これがまたいい女。『プレイズ・ジョビン』の田舎出の女の子といった風情とは大違い。NYの風に磨かれたということか(彼女はNY在住)。思わず“ジャケ買い”してしまった。


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July 02, 2004

アダルト・ピアノ、えっ?

『アダルト・ピアノ』(PHP新書)を読んだ。思わせぶりなタイトルだけど、サブタイトルは「おじさん、ジャズにいどむ」。『霊柩車の誕生』ほかユニークな風俗史研究で知られる井上章一が、40歳にしてジャズ・ピアノに挑んだ体験記。

著者はピアノに挑んだ動機が不純であることを隠さない。どころか、女性にもてたい! ホステスさんのアイドルになりたい! 鍵盤からフェロモンを発散させたい! と、最初から最後まで叫んでる。その正直さ(?)が、いかにもこの人らしい。

実は僕も、ほんの少しだけジャズ・ピアノを弾く。著者よりもっと上の歳になって初めて鍵盤を触ったのだから、その腕は推して知るべし。だから、何か参考になるかと思って買ってしまったのだ。その点では期待はずれだったが、なるほどと思ったのは、実践体験の積み重ね方。

北新地のナイトクラブで頼みこんで弾く。知り合いのパーティーでBGM代わりに弾く。教え子の結婚式で、教師の特権を行使して半ば押しつけで弾く。そんなふうに経験を積んできたらしい。

失敗もしたらしいけど、この強引さが必要なんだな。僕も、たまに他人の前で弾くけれど、いまだに指がふるえることがある。

仕事をリタイアした暁に、いつか酒場の片隅で目立たぬようジャズを弾いている、というのが僕の子供じみた夢だけど(カッコつけた言い方で、その心は井上章一と同じ)、このままではそれもおぼつかない。著者を見習わねば。

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