December 05, 2019

世田谷美術館へ

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寛解の診断をもらったけれど、抗ガン剤の後遺症で足裏がしびれ、爪が割れやすくなっている。寒くなるにつれ症状が強くなって、寒い朝や長時間歩いたりすると足先が痛む。自然、遠出するのが億劫になる。

今日は暖かかったので、病院帰りに世田谷美術館へ回って「奈良原一高のスペイン──約束の旅」展(~20年1月26日)。1960年代、30歳そこそこの奈良原によって撮影されたもの。いま見ても鮮烈。印刷でしか知らなかった作品を新しいプリントで見ることができる。

ひとまわり見て足が痛くなったので、館内のカフェで紅茶と洋梨のタルトでひと休み。窓の外のテラスは初冬の陽射し。室内にはアコーデォインの「シェルブールの雨傘」が流れてる。生きる歓びに満ちたフィエスタ。生と死が隣り合った闘牛。いま見てきた写真を思い出して、こういう時間をもてる幸せを味わう。

 

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December 03, 2019

一美を悼む

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新宿ゴールデン街時代の飲み仲間である一美が亡くなった。一年ほど前に倒れ、意識が戻らないまま闘病生活をつづけていたが、11月24日、家族に見守られて旅立った。

一美とひんぱんに会っていたのは40年以上前。たいていゴールデン街の「ちろりん村」で会い、仲間と映画や演劇や小説の話で盛り上がった。アングラ芝居や神代辰巳の映画やラグビー早明戦を一緒に見に行ったこともある。鋭い感受性をもち、独特の身ぶりやしゃべり方に1970年代の空気を全身にまとった女性だった。

その後、彼女はご主人と沖縄に移り住んだ。那覇でタウン誌の編集にかかわり、ときどき頼まれて映画の紹介を書いたこともある。その原稿料がわりにともらった金城次郎の徳利と盃は、いまも食器棚に飾ってある。

沖縄から戻った彼女は、実家のある静岡県にご主人と住んだ。それから彼女と会ったのは数度。店を閉めた「ちろりん村」のMさんを中心に花見と忘年会があって、そこでたまに顔を合わせる程度だった。

今日、机を整理していたら、二年前に彼女からもらった葉書が出てきた。追悼の思いをこめて、それを書き写す。

「ご本拝受いたしました。お礼が遅くなり申し訳ありません。現役でご活躍うらやましい限りです。健ちゃん、平地さん、なつかしい名前。チャンドラー、末永史、モンク、みんな記憶の底に沈んでる。東京の喧騒から遠く、七〇、八〇才のジジイ仲間と家庭菜園の日々です。今年の忘年会には参加できるかな?」

 

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December 02, 2019

『アイリッシュマン』 稲妻のような

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『アイリッシュマン(原題:The Irishman)』はロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシという豪華キャスト、マーティン・スコセッシが監督したことで話題のネットフリックス・オリジナル映画。劇場公開もされているが、先週からネットフリックスで配信が始まっている。3時間半の長尺だけど、一気に見た。『タクシー・ドライバー』や『グッド・フェローズ』といった初期のスコセッシ映画のテイストが蘇っているのが楽しい。

主な登場人物は3人で、いずれも実在の人物。トラック運転手のフランク(ロバート・デ・ニーロ)は輸送する牛肉を横流しして日銭を稼いでいる。ある日、路上でペンシルベニア北東部を仕切るマフィアのボス、ラッセル(ジョー・ペシ)と知りあい彼の手伝いをするようになる。やがて殺しにも手を染める。フランクはラッセルの紹介で、フランクも属する全米トラック組合の委員長ジミー(アル・パチーノ)のボディガードとしても働くようになる。

1950~60年代のアメリカ。国中の物流を押さえる全米トラック組合は強大な力をもった圧力団体で、委員長ジミー・ホッファ はそのトップに君臨していた。ジミーはマフィアとも関係していたと言われる。やがてジョン・F・ケネディが大統領に当選し、弟の司法長官ロバートがジミーとマフィアとの闇を追及しはじめる。それがこの映画の背景。

映画は、年老いて養老院に入ったフランクが過去を回想するスタイル。前半はニュース映像も交えながら3人が知り合い、家族ぐるみのつきあいをし、殺しを依頼したりもする互いの関係がテンポよく描かれる。『グッド・フェローズ』のような一代記の語り口を思い出した。

3人の関係にヒビが入る後半は、ドラマがぐっと盛り上がる。ジミーは有罪となって服役し、出所すると若い幹部が台頭している。マフィアのラッセルにとって、復権を目指すジミーは目障りな存在となりつつある。2人の狭間に立つフランク。このあたり『仁義なき戦い』のような、利害と友情が絡みあう展開。現実にはジミー・ホッファはある日、忽然と行方不明になり現在に至るまで真相は不明なのだが、映画ではラッセルの命でフランクがジミーを殺す。

その前後の描写がしびれる。フランク夫妻はデトロイトでジミーと会うためラッセル夫妻と旅していたが、途中ラッセルはフランクに、ジミーとは会うな、と伝える。ところがモーテルに泊まった翌朝、ラッセルは一転してフランクに、「ジミーに会うのを止めると君にやり返されそうだ。行ってやれ」と言って、自家用飛行機を手配する。デトロイトに用意された車にフランクが乗ると、グラブコンパートメントには拳銃が入っている。ラッセルの言葉を文字通り取れば、それでジミーを守ってやれということだが、ラッセルのやり方では、それでジミーを殺せという指示になる。そしてアジトでの、いきなりの発砲。並みの映画ならフランクの苦悩の表情を見せるところだけど、スコセッシはそんな内面描写を一切しない。その稲妻のような衝撃は、初期のスコセッシ映画に色濃くあったものだ。

これはデ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、3人を見るための映画でもある。パチーノとペシの息詰まるような演技に、狂言回し役のデ・ニーロが時に激しく、時に緊張をほぐすように柔らかく対応する。3人の若い時代の姿は代役でも特殊メイクでもなく、CGでつくられている。メイキングの座談会を見ると3台のカメラを回し、そこから得られた角度の違う画像を操作して若い姿にしているようだ。 これからはこの手法が主流になるのかも。

 撮影のロドリゴ・プリエト、音楽のロビー・ロバートソン、そしてスコセッシと、スタッフもキャストに劣らず豪華。製作費は1億6000万ドル。ネットフリックスが今年、世界中でオリジナルな映画・連続ドラマ制作に投じた資金は150億ドルと言われる。1本1本の興行収入に依存するのでなく、1億6000万人会員の月ぎめ定額料金(サブスクリプション)を収入源とする動画配信産業だからこそできる映画づくりだろう。

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November 14, 2019

『象は静かに座っている』 タル・ベーラの息子

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フー・ボー監督の『象は静かに座っている(原題:大象席地而坐)』は長編第1作にして遺作。29歳のボー監督は、この3時間54分の大長編を完成させた後、自ら命を絶ってしまった。死後に出品されたベルリン映画祭で国際批評家連盟賞と最優秀新人監督賞を受けている。どでかいスケールの監督が彗星のように誕生し、彗星のように消えていった。どんなに中央集権化が進み、映画に対する規制が強化されても、地から湧くように生まれてくる中国映画のエネルギーを感ずる。

北京から南へ数百キロ、河北省にあるらしい田舎町。映画は4人の主人公の1日を追う。高校生のブー(ポン・ユーチャン)は、学校で友達を脅すシュアイをはずみで階段から突き落とし、死なせてしまう。ブーの同級生リン(ワン・ユーウォン)は、学校の副主任と不倫の関係をつづけている。ブーと同じアパートに住むらしい老人ジン(リー・ツォンシー)は、孫の教育のために引っ越しを考える娘夫婦から老人ホームに移るよう説得されている。親友のアパートでその妻と寝ていたチンピラのチェン(チャン・ユー)は、帰って来た親友と鉢合わせし、友は窓から身を投げてしまう。

4人とも、どこにでもいるような男と女たち。でも4人とも家族とうまくいかず、日常のなかでどうにもならない閉塞感を抱えこんでいる。「この世はろくでもない」「ヘドが出る」と彼らはつぶやく。

カメラははじめ、ばらばらに見える4人をひとりずつ、その行動を追ってゆく。次第にそれぞれに接点が生まれてくる。ブーは同級生のリンに、内モンゴルの満洲里の動物園に一匹の象がいる、その象は一日中ただ座っているらしい、その象を見に2300キロ先の満洲里まで行かないかと誘う。チェンはブーに階段から突き落とされたシュアイの兄で、弟を殺したブーを追うことになる。ジンもチェンと子分たちに絡まれる。ブーは顔見知りの老人ジンから、自分のビリヤードのキューと引きかえに満洲里にいくための金をもらう。満洲里の象は、逃げ場のない日常から脱するためのかすかな希望のようなものだ。でも同時に、「どこへ行っても同じだ」とも分かっている。

スタイルが強烈だ。長回し。そしてカメラの被写界深度が極端に浅い。4人に密着するカメラは彼らだけにピントが合っていて、対話する相手や周囲の風景はボケている。見る者はカメラが向いている人間だけを見つめることを強いられる。ピントがごく一部にしか合わない映像は、彼らの閉塞感にみあって、閉じ込められた感覚を見る者にもたらす。曇天や雪や水蒸気に曇った窓といった白っぽい風景が、閉じられた感覚をさらに強めている。そのなかから、彼らが暮らす町の風景がおぼろに浮かび上がってくる。

何人かの人間が死に、チェンは傷つく。ブーとリンとジンは、満洲里に旅立つ。

数年前に見たハンガリー映画『サウルの息子』も、被写界深度が浅い、同じスタイルの映画だった。『サウルの息子』は107分と短めの作品だったが、こちらは234分。この長時間を同じスタイルで通し、しかも見る者をまったく飽きさせないのだから凄い。

2本の映画には共通点がある。『サウルの息子』の監督は、4本の伝説的作品を残して引退したタル・ベーラ監督の助監督を務めていた。フー・ボー監督もタル・ベーラの指導を受けて短編映画をつくったことがある。僕は4本のうち『倫敦から来た男』しか見ていないが、モノクロームの悪夢のように息詰まる映画だった『倫敦から来た男』とこの2本の映画は、長回しのスタイルも画面を支配する空気も共通するものがある。タル・ベーラの息子たち。そのひとりが若くしていなくなって、世界の映画に大きな空洞があいた。

 

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November 13, 2019

寺山修司贋絵葉書展

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「寺山修司贋絵葉書展」(~12月25日、東神田・kanzan gallery)へ。贋絵葉書数十点が展示されている。

寺山修司はいっとき贋絵葉書づくりに熱中したという。架空の人物から架空の人物へ宛てた絵葉書。自分でモノクロ写真を撮り、人工着色するなど手を加え、短い文面を書き、外国の古切手を貼り、特注のスタンプを押す。写真は昭和初期の怪奇とエロティシズムにあふれている。スタンプには「上海ー横浜」「迷宮王国」などの印。

文面は「御申し越しの剥製の犬二匹は 残念ながら先約があり お送りいたしかねます 男爵机下」「二枚の鏡の間に立たされ ほらこれがお前だよと言われた時から 私は無限に反射し合う 鏡の遊びに墜ち込んで行った様で御座います 影男より」といった具合。

会場入口には「私は、若くして死んだ詩人のことばを思い出していた。『実際に起らなかったことも、歴史のうちである』」と、寺山の文章が掲げられている。

虚実皮膜に遊ぶ懐かしい寺山ワールドを満喫しました。


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October 26, 2019

『ジョーカー』 不穏でもあり優雅でもあり

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僕は原作のコミックをぱらぱらと見たことがある程度だけど、映画化されたティム・バートンの2部作とクリストファー・ノーランの3部作では、主人公のバットマンより敵役であるジョーカーやキャットウーマンのほうが魅力的だった。それは主役のマイケル・キートンやクリスチャン・ベールといった二枚目より、ジャック・ニコルソン、ミシェル・ファイファー、ヒース・レジャーといった敵役のほうが圧倒的に個性派だったことにもよる。でもそれだけでなく、監督のバートンやノーランが人間に潜む悪や混沌といったものに惹かれたことにもよるんじゃないだろうか。『ジョーカー(原題:Joker)』はそうした映画版の悪の魅力を受け継ぎ、ジョーカーの誕生を描く大人のエンタテインメント。その不穏なテイストがたまらない。

貧困層が住むアパートで年老いた母と暮らすアーサー(ホアキン・フェニックス)はコメディアンを目指し、ピエロとして生計を立てる心優しい男。子供のころ脳に傷を負い、自分の意思と無関係に笑いだす病気をもっている。地下鉄で彼の笑いが誤解されたことがきっかけでビジネスマン3人を殺してしまったことから、自分のなかの悪に目覚めていく。社会は富裕層と貧困層に分断され、貧困層の不満が高まって、ピエロの化粧を施したアーサーは混乱のなかでヒーローとなってゆく。

舞台となるゴッサム(ニューヨーク)の街並みや地下鉄の落書きから、1980年代のニューヨークが想定されているのがわかる。ベトナム戦争が終って社会がすさみ、製造業が衰退し、中間層が分解しはじめた時期。人々の不安と怒りが高まってゆく。アーサーは周囲の冷たい仕打ちにうちひしがれている。その失意のなかからジョーカーが誕生するわけだけど、1980年代が現代の1%対99%と言われるアメリカに重ねられている。そんな社会派映画っぽい要素を持っている。 

 でもこの映画が面白いのは社会派であるだけでなく、音楽映画あるいはミュージカルの要素が詰まっていること。アーサーが住む部屋のテレビ画面ではジーン・ケリーの映画がかかっている。アーサーはまたフランク・シナトラの歌を口ずさむ。アーサーが殺人を犯したことでなにかが吹っ切れたとき、トイレのなかでひとりゆったりと踊る。さらに人を殺して自らがジョーカーとして生きることを確信したとき、アーサーは石の階段を下りながら自らを解放した喜びに再びジーン・ケリーのように踊る。クライマックスでジョーカーが群衆の真中に立つとき、クリームの「ホワイト・ルーム」がいきなり流れだしたのには驚いた。懐かしい曲が懐しいだけでなく、攻撃的で人々をアジテートする音楽のように聞こえてくる。

音楽だけでなく、過去の映画の記憶も詰まっている。アーサーがテレビの生のトークショーに出演してキャスター(ロバート・デ・ニーロ)を殺すあたりは、そのデ・ニーロがトークショーのキャスターを誘拐する犯罪者を演じたマーティン・スコセッシの『キング・オブ・コメディ』に似ているし、社会から孤立した男が犯罪者になっていくストーリーは『タクシー・ドライバー』を思い起こさせる。設定は1980年代らしいけど、劇中の映画や音楽は50~70年代のものが混在して、全体としてノスタルジックでありながら不穏でもある。

アーサーを演ずるホアキン・フェニックスは、ニコルソンやレジャーのジョーカーを踏まえて引きつる笑いと優雅なダンスが印象的。監督はトッド・フィリップス。この監督の映画はコメディの『ハングオーバー!』しか見たことがなかったので、あまりの変わりように驚いた。

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October 12, 2019

『マインドハンター』 ネトフリ廃人?

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「ネトフリ廃人」という言葉があるそうだ。ネットフリックスの、主に連続ドラマにはまってネットフリックスを延々と見つづけ、廃人のようになってしまった人間を言う。僕はネットフリックスで単発の映画やドキュメンタリーを見ているので無縁だと思っていたけれど、この1週間、「ネトフリ廃人」になりかけた。

その罪深いドラマは『マインドハンター(Mindhunter)』。『セブン』の映画監督デヴィッド・フィンチャーと女優のシャーリーズ・セロンが製作し、フィンチャーが19話中7話を演出している。かつて一世を風靡したデヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』のフィンチャー版といった感じ。

主人公は1970年代のFBI捜査官二人。猟奇的な犯罪を犯した連続殺人犯に聞き取り調査をし、後にプロファイリングと呼ばれる手法を確立する男たちの物語だ。と書くと、よくある猟奇犯罪ものか、と思われるかもしれないが、このドラマが面白いし凄いのは猟奇的な残酷描写やアクションがほとんどなく、徹頭徹尾会話劇であるところ。

なかでも実在の犯罪者エド・ケンパー(キャメロン・ブリットン)と主人公フォード捜査官(ジョナサン・グロウ)が獄中で何度も対話するシーンはシリーズ1の白眉だ。シリーズ2ではチャールズ・マンソンも登場する。ケンパーやマンソンの語る言葉によって、猟奇犯罪を犯した男の心のうちがじわりじわりあぶり出され、世間の掟に従って日常生活を送っている私たちの奥底にも同じものが潜んでいるのに気づいてぞくぞくっとする。シリーズ2ではフォード捜査官もケンパーの言葉に感応し、抱きしめられてパニックを起こしてしまう。

もうひとりの主人公は、FBIに行動科学科というセクションをつくったベテランのテンチ捜査官(ホルト・マッキャラニー)。テンチは古い体質の組織や上司とつきあいつつ、若いフォードが時に暴走するのを抑える。そして二人に勧誘され大学の研究者からFBIに転身したウェンディ(アナ・トーヴ)。黒いスーツに身を固めたウェンディがクールな目で男二人を見据えて皮肉をとばすシーンがどのエピソードにも出てきて、なんとも恰好いい。

この三人を中心に、何人もの連続殺人犯へのインタビューが繰り返される。各地の警察署から連続殺人事件捜査への協力を要請される。三人それぞれのプライベートな生活が挿入されるのもドラマに彩りを与えてる。シーズン2の終わりでは、フォードは大学院生の恋人と、テンチは妻と、ウェンディは同性の恋人と、それぞれ破局を迎えてしまったようだ。

このドラマのもうひとつの魅力は、1970年代のアメリカが見事に再現されていること。街並み、自動車、ファッション、髪型、音楽……。この時代、ヒッピーやカウンター・カルチャーが話題になっていたとはいえ、そういうものと無縁な中西部や南部が舞台で、合衆国の多数派の人びとが登場するドラマ。中産階級が多く豊かだった時代の地方都市の空気が実によく描かれている。

 

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October 11, 2019

『帰れない二人』 現代史を凝縮したメロドラマ

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病院で「寛解」との診断をもらって、さて、まず何をしようか、と院内のカフェでお茶を飲みながら考えた。そうだ。このまま映画を見に行こう。これまでは感染症の恐れがあるので人混みは避けるよう言われ、映画館へ行くのを自分に禁じていた。それを解こう。映画館で映画を見るのは10カ月ぶりだ。ちょうど見たい映画がかかっていた。ジャ・ジャンクーの『帰れない二人(原題:江湖儿女)』。彼の映画はほとんど見ているから、見逃したくない。というわけで渋谷のル・シネマへ。

原題の「江湖儿女」は、流れ者の男と女、といった意味らしい。中華人民共和国は建前として黒社会の存在など認めないだろうけど、どの時代どの国にも社会からはみ出して生きる人間は存在する。この映画は流れ者として生きる男と、その男を愛する、彼女自身もなかば社会からはみ出た女が主人公。時代は2001年、2008年、2017年。場所は山西省、三峡ダムとウィグル、再び山西省。時代と場所を越えて一組の男と女の物語が語られる。

 2001年、炭鉱の町、山西省大同。炭坑夫の娘チャオ(チャオ・タオ)は雀荘を経営している。恋人はヤクザ者で、若いもんを束ねるビン(リャオ・ファン)。炭鉱は不況で、炭鉱局は新疆に移ることが決まっている。チャオはビンに一緒に暮らそうと迫るが、ビンはうんと言わない。ある夜、町でビンは若いチンピラに囲まれぼこぼこにされる。見かねたチャオはビンが持っていた拳銃を発射する。2008年、三峡ダムで沈む町、奉節。刑務所を出たチャオは、事業に成功した弟分の世話になっているビンを訪ねてゆく。が、ビンは弟分の妹の恋人になっていた。船着き場で無言で向き合う二人。チャオはゆきずりの男に誘われ新疆ウィグルへ向かう列車に乗る。2017年、再び大同。古巣の雀荘の女将に収まっていたチャオのもとへ、脳出血で半身不随になったビンがころがりこんでくる、、、。

離れそうで離れられない男と女を、ジャ・ジャンクー映画のミューズであるチャオ・タオと、武骨なリャオ・ファンが言葉少なに、そのかわりふとした身振りや表情で陰翳たっぷりに演じている。それがこの映画の最大の見どころ。雑草が生え人けのない炭住を背景にチャオとビンが並んで歩くショット、揚子江の船着き場で無言で向き合うショット、粗末なホテルの部屋でぽつぽつ語りあう二人のショット、チャオにあてがわれた雀荘の部屋で言い合う二人のショット。忘れがたい場面がいくつもある。2001年では可憐な娘の風情を残すチャオが、2008年では刑務所帰りの女詐欺師に変身し、2017年には貫禄ある雀荘の女将になっている。チャオ・タオは服装と髪型の変化でそれぞれに魅力的な女を造形している。

もうひとつの見どころは、風景と人。2001年と2008年のパートでは、一部に当時撮影したフィルムが使われているという。街のたたずまいも人々の服装や表情にも、つくりものでないリアルさがある。2008年くらいまで、まだ服装も顔も僕が知っている1980年代の貧しい中国とさほど変わっていない。2001年のパートに出てくる乗り合いバス、2008年の新疆へ向かう夜行列車、2017年の新幹線と、乗り物も変わりゆく時代を雄弁に物語る。エリック・ゴーティエの撮影も、2001年と2017年では質感が異なって古いフィルムと違和感なくつながる。

ジャ・ジャンクーの作品群はすべて改革開放以後の中国を舞台にしている。だから彼の映画を全体として見れば、叙事的な中国現代史になっている。この映画は、そのうち山西省を舞台にした『青い稲妻』と三峡ダムを舞台にした『長江哀歌』の設定を引き継いでいる。『青い稲妻』はずいぶん昔に見たので覚えてないが、山と川を背景に船上のチャオを捉えた『長江哀歌』と同じようなショットがあった。

映画のスタイルも、ずいぶん変わってきた。ドキュメンタリーふうな初期作品から、『罪の手ざわり』では武侠映画のスタイルを取り入れ、犯罪や暴力をテーマにした。前作『山河ノスタルジア』では過去・現在・未来という三つの時代をオムニバスにしている。『帰れない二人』はそうした要素をふんだんに取り入れて、ジャ・ジャンクーの全作品が語る長大な中国現代史を1本に凝縮したメロドラマといった味わいがある。

 

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October 04, 2019

タイサンボクの実

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一昨日、病院へ検査結果を聞きにいった。結果は、寛解していますとのこと。がんの場合、寛解とはがん細胞は見つからず症状もない、ただし本当にがんが消えたかどうかは時間がたってみないと分からない、ということらしい。診断結果を聞いて、ほっとひと息。もっとも、手足のしびれなど抗がん剤の副作用は残っているし、体重もだいぶ減ったので体力・筋力が低下している。これからは、定期的に検診を受けながら体力を回復するリハビリに当たることになる。

皆さんからたくさんの励ましをいただきました。それに支えられてここまで来られたのだと思っています。ありがとうございました。

写真は病院の入口にあるタイサンボクの葉と実。巨大な白い花、日差しを受けて光る肉厚の葉、堂々とした枝ぶりは、その下を通りぬけるたびに力強い生命の力をもらうように感じられた。

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September 25, 2019

1日がかりの検査

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昨日は1日がかりの検査。朝6時半に軽く朝食をとった後は、夕方に検査が終わるまで摂取できるのは水のみ。午前中は採血、午後は、微量の放射性物質を体内に注射し、その動きをCT撮影するというもの。

今朝の朝日新聞をみたら、たまたま素粒子物理学者の村井斉が反物質という物理学の理解しにくい現象を利用したその仕組みを解説してた。放射性フッ素を含んだ糖分を体内に入れると、糖分を好むがん細胞の周辺に集まる。がん細胞にとりこまれた放射性フッ素が反応して反物質の陽電子を生みだし、陽電子が崩壊するときガンマ線を放出する。それを撮影することで、がんの存在を確認できるというもの。僕はPET-CT検査と呼ばれるこの検査法の画像を見たことがある。ガンマ線は赤いボールのように点々と妖しく光っていて、がん細胞がつくりだす人体のなかの美しい光景になぜか感動してしまった。

この検査での人体への被ばくは2.2ミリシーベルトで、人間がふつうに暮らしていて1年間に受ける自然放射能とほぼ同じ値だという。しかも短時間で減っていくが放射能には違いなく、帰るときに妊婦さんや幼児には近づかないよう注意される。自分がいわば放射能漏れしている小型原子炉になっているわけだ。

そのこともあり、また腹も減っていたので、病院の最上階にあるレストランで遅い昼食。レストランからは建設中の新国立競技場が眼下に見える。ずいぶんこぢんまりとまとまった外観。これに比べれば当初のザハ・ハディッドのデザインのほうがインパクトは強烈。衰退しつつある国が注ぎ込むムダ金の記念碑として、こちらのほうが時代的意味があったのではないか。

 

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