July 07, 2020

在監者合葬の墓

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さいたま市役所から西へ、市役所通りを数分歩いた住宅地の一角にフェンスで囲まれた墓地がある。中へは入れないが、3基の墓が建っていて、いちばん新しい墓に「在監者合葬之墓」と彫られているのが読める。裏には「明治四十四年 浦和監獄」とある。明治初期、埼玉県の県庁が浦和に置かれ、県庁や裁判所とともに監獄ができた。その獄中で亡くなった人たちを合葬したのがここだった。県庁に近い監獄から歩いて10分ほど。大宮台地の端、鯛ケ窪と呼ばれる谷の崖上にあり、今はびっしり住宅が建っているが、当時は畑か草原のなかだったろう。

古い2基の墓の横面と裏面にはびっしり人名が彫られている。調べると、そのなかに「村上泰治」「南関蔵」という名前があるかもしれない。2人は明治17年、「浦和事件」と呼ばれる事件の被告で浦和監獄で獄死した。

「浦和事件」といっても浦和で裁判が行われたからこう呼ばれたので、事件は群馬と秩父にまたがる。当時、自由民権運動が激しくなり、関東でも群馬、茨城、埼玉(秩父)の自由党員が急進化して政府転覆を訴え、武装蜂起を計画するグループも出た。そんななか、群馬の上毛自由党では党の機密がしばしば漏れる事態が起き、密偵が潜り込んでいるのではないかとの疑いが生じた。その疑いは、上毛地方にひんぱんに姿を現す自由党員・照山俊三に向けられ、ひそかに彼の殺害計画が練られた。上毛自由党の幹部は秩父の自由党員・村上泰治に、照山を秩父に誘い出して計画を実行することを依頼。村上はこれを引き受け、同志の南関蔵らと村上の自宅で照山を殺害した。逮捕された村上と南は浦和監獄に収監されたが、二人とも裁判中に獄死している(二人がこの墓に合葬されたかは分からない)。

この事件の後、群馬事件、秩父困民党事件、加波山事件など自由党員の蜂起が相次ぎ、いずれも弾圧された。秩父困民党事件で捕われた者も浦和監獄に収監されたという。

表示や説明が一切ないので、どんな場所かまったく分からない一角。散歩の途中で足をとめ、フェンスの外から手を合わせる。

 

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July 06, 2020

線路脇

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散歩でよく歩く北浦和駅付近のJRは3複線で、京浜東北線、上野・東京ライン、新宿・湘南ライン、それに特急や貨物が走っている。線路際にはよく鉄道ファンがカメラを構えて列車を待ってる。今日はとりわけ多いので聞いてみたら、150メートルのロングレールを運ぶ貨物が来るんだそうだ。その瞬間をひとつ、と思ったら、皆さんが望遠レンズをつけシャッターを押してるときは、こちらのカメラに列車が写らない。列車が近づいたときには皆さん既に撮影を終えていた。

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June 30, 2020

アオサギ

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雨が降りだす前にと散歩に出て高沼用水路を歩いていたら、遊歩道の脇にアオサギが立っていた。3本の用水路が走るこのあたりシラサギやアオサギがいるが、こんな近くで見たことはない。3メートルほどに近づいても微動だにしない。人慣れしてるというか。小魚か昆虫でも狙ってるんだろう。めったにない機会なのでしばらく眺めていたら、やおらとことこと歩きだした。

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June 25, 2020

「写真と映像の物質性」展へ

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美術館・博物館がようやく開きはじめた。数カ月ぶりの美術館として、まずはご近所の埼玉県立近代美術館へ。わが家から歩いて10分。平日の午後、「写真と映像の物質性」というテーマからして混んでいるとは思えないし。まず入口を入ったところで手指の消毒、名前と連絡先を書き、検温という手続きを経てチケット売り場へと行く。会場は人がちらほら。


写真にも映像にも興味があるけど、出品者4人+1グループのうち、知ってる名前は横田大輔しかいなかった。「物質性」という現代美術寄りの企画。写真も映像も、何が写っているかというより、写ったものを加工し抽象化することで素材や手法を際立たせる。なかで、風景や人を数百枚連続撮影して貼り重ね、地形図の等高線のように刻んで立体的な画像を見せるNerhol(グラフィックデザイナーと彫刻家のデュオ)の展示が面白かった。好みとはちがうけど、久しぶりの美術館を楽しんだのでした。

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June 23, 2020

元三大師の護符

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京都に住むNさんから、「元三大師疫神病除」のお札が送られてきた。Nさんからは、去年私が病気だったときも道成寺の平癒祈願のお札をいただいた。ありがたく頂戴して、さっそく玄関の柱に貼りつける。

元三大師(十八代天台座主)誕生の地である玉泉寺(滋賀県長浜)の護符。歴史のなかで繰り返し襲ってきた疫病を退散させるため、元三大師自らが夜叉神になった姿をかたどっている。コロナ禍のなかで、そのお札を復刻したそうだ。もっと自由に旅行できるようになったら、いちど寺を訪れてみたい。

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June 22, 2020

ようやく見た『鉄西区』

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アップリンク・クラウドにはアップリンク(最近、社長のパワハラが問題になってる。一人で立ち上げ急拡大したミニシアターにありがちなこと)だけでなく、他の会社の映画も配信されている。配給会社ムヴィオラの見放題パックに中国のワン・ビン監督のデビュー作『鉄西区』があった。9時間16分の長大なドキュメンタリー。これ以後の監督の作品はだいたい見てるけど、世界各国の映画祭で受賞したこの伝説的な映画だけは未見だった。

『鉄西区』(2003)は中国東北部の都市・瀋陽を舞台に1999~2003年にかけて撮影された3部作。「工場」(240分)、「街」(175分)、「鉄路」(130分)に分かれている。第1部「工場」は、貨物列車の上から撮影された線路と沿線風景が延々とつづく長い長いショットから始まる。雪のなかに延びる単線線路。両側にはレンガづくりの古びた工場。直前で踏切を横切る人や車。それが10分近くつづくんだけど、時折り機関車の汽笛が響くだけの単調な工場街の風景に惹きつけられる。列車に乗って車窓を流れてゆく風景に見入ってしまうのと同じ感覚。

やがてカメラは工場に入っていく。現場で働き、休憩所でだべったり将棋で遊んでいる労働者たち。ここは国営の瀋陽精錬所で、経営不振から労働者の解雇がつづく。工場の民営化や倒産も噂されている。カメラは彼らの後を追う。ナレーションが入らないので必ずしも理解できるわけではない会話の切れ端から、誰それは辞めるときいくらもらったとか、診断書を書いてもらって仕事をさぼるとか、上司の悪口とか、来年はもうだめだなとか、労働者の声が聞こえてくる。誰もカメラを意識しないのは、ワン監督との信頼関係が既にできあがっているからだろう。やがて銅や鉛の精錬工場が次々に操業を止め無人になってゆく。

おそらく戦前に建設されたままの古びた工場で働く労働者の姿を捉え、会話に聞き入る。その長いショットが一見無造作に積み重ねられ、印象としては断片の寄せ集め(実は周到に編集されているに違いないが)のなかから、彼らが置かれている状況がじわっと見えてくる。効率よくいいとこだけ編集して分かりやすく解説してくれるドキュメンタリーとは正反対の240分の画面から、目が離せなくなる。

「街」でもそれは変わらない。舞台は艶色街という、古びた労働者の住宅街。再開発のため取り壊しが決まっている。カメラが追うのは、街に住むティーンエイジャーたちと、その家族。若者はほとんど職がなく、日がなぶらぶらし雑貨屋に集まってはタバコをふかしてだべっている。その無為を、ただ黙って見ている。大人たちは、立ち退いても今より狭い住居しかもらえないと文句をたれている。それでも1軒、また1軒と引っ越し、取り壊されて、街は瓦礫になってゆく。

「鉄路」は1、2部とは肌合いが異なる。最初は工場群を結ぶ貨物鉄道網で働く労働者たちを1、2部と同じように追っているけれど、やがてカメラは一組の親子に焦点を絞ってゆく。老杜と17歳で無職の息子。老杜は文革世代で農村に下放され、瀋陽に戻っていっとき鉄道で働いていた。やがて職を失い、鉄道敷地内の壊れかけた家に(どうやら不法に)住み、かつての仲間がかすめてくる屑鉄を買う屑拾いで生計を立てているらしい。やがて老杜は鉄道警察によって拘留される。それまでカメラに向かって無表情で一言も言葉を発しなかった息子が、はじめて感情を露わに泣き始める。釈放された老杜と息子が食堂で酒を飲み、泥酔した息子は抑えていた感情を爆発させる。9時間16分のなかでただ一箇所、物語的なクライマックスが訪れる場面だ。立ちあがることもできない息子をおぶって老杜が家へ戻る姿に泣く。やがてこの長大な映画は、新年に老杜が新しい家で鉄道の仲間たちと酒を酌み交わすショットで終わる。

『鉄西区』以来、ワン・ビン監督は10本以上のドキュメンタリーと1本の劇映画をつくっているが、中国国内では1本も公開されていない。その映画にあからさまな政治的主張はないけれど、この20年間、経済発展する中国の影の部分を見据えてきたからだろう。1980年代の改革開放以後の中国をいろんな素材、いろんなスタイルで描いてきたジャ・ジャンクー監督の映画群と、このワン・ビン監督の映画群を併せ見ると、中国現代史をそのいちばん底から理解できるような気がする。

もうひとつこの映画が画期的だったのは、小型デジタルカメラを使うことで、低予算、ごく少ない人数で映画をつくっていることだろう。画面には時折りカメラマンの影が映りこむが、いつも影はひとつ。ワン監督がたったひとりでカメラを回している。夜や老杜の家のなかは暗いけど、自然光で撮影でき、それがまたリアリティになってもいる。新しい機材が新しいスタイルを生み出したいい例だろう。

 

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June 20, 2020

力石

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昨日一日の雨のあと、朝からこの時期にめずらしく空気の澄んだよい天気。与野・大宮方向へ散歩する。

国道17号沿いに中里稲荷神社がある。浦和宿と川越を結ぶ街道にあった中里の鎮守で、境内に「力石」が2つ置かれている。村人が力くらべした石で、「明和二乙酉(1765) 二十六貫目(97キロ)」と刻まれている。もうひとつの石には「二十七貫目(101キロ)」。米俵1俵が60キロだから、かなりの重さ。石の挙げ方にも片手さし、両手さし、肩上げなどのやり方があったという。

40年ほど前、司馬遼太郎さんとバスクを旅したとき山村で祭りに出会い、誰がいちばん早く斧で丸太を割れるか、男たちが力比べをしていたのを見物したことがある。ヨーロッパ古層の文化を残すバスクでは、たぶん今もこの競争がおこなわれているだろう。この神社の力石挙げは、いつごろまでやられていたのだろうか。

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June 18, 2020

大戸貝塚へ

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一昨日は縄文時代の植生を残す睦神社まで散歩したので、今日は縄文時代の貝塚である大戸貝塚あたりを歩く。

大宮台地の端にあるこのあたりは、小さなアップダウンが多い。貝塚近くの谷筋には小さな川が流れていて現在は暗渠になり、その上が緑道になっている。縄文海進の時代には、このあたりまで古東京湾が入り込んでいた。緑道から少し坂を上がった住宅地のなかに大戸貝塚跡があり、石碑が建っている。

貝塚は5~6000年前、縄文前期のものと推定される。使われなくなった5つの竪穴住居跡の窪みに貝が捨てられていた。東西35メートル、南北30メートルの大規模なもの。貝は淡水産のヤマトシジミを中心に、海水産のハマグリ、ハイガイ、マガキなど16種。想像するに、この谷筋は川から流れ込む淡水と入り込んだ海水が入りまじり汽水湖のような状態だったのではないか。

この坂を上りきると、向こうに低地が広がるのが見え上越・東北新幹線が走っている。この低地一帯、当時は荒川に沿って入り込んだ古東京湾の入江だった。貝塚のある高台は南北に走る尾根筋で、だから古東京湾と反対側の谷筋の汽水湖に挟まれた岬のような地形だったのかもしれない。そんなことを想像してみる。

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藤原辰史『カブラの冬』を読む

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藤原辰史『カブラの冬』(人文書院)の感想をブック・ナビにアップしました。

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June 16, 2020

睦神社へ

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散歩で国道17号を東京方向に歩き、別所坂下の交差点を左に折れてしばらく行ったところに睦神社がある。石段を30段ほど上った高台に浅間神社、八幡神社、諏訪神社の社殿が建っている。もともとここには浅間神社があり、明治期に他の神社が合祀されて睦神社と呼ぶようになった。睦神社の森は、縄文時代の植生をそのまま伝えている。


7000年前の縄文海進の時代には、海抜10メートル前後のこのあたりまで海が広がっていた。以前、海抜10メートルを境に色分けした浦和の地形図を見たことがあるが、古東京湾に面するこのあたりはリアス式のような複雑な海岸線が広がっていた。浦和という地名は、かつて浦曲とも記されたという。「浦」も「曲」も遠い過去の記憶を伝えているのかもしれない。


解説板によると、「この神社は大宮台地の南縁の舌状台地上」にあり、シロダモ、ヤブツバキ、ビナンカズラ、キチジョウソウなど暖地性常緑広葉樹が繁茂している。これは「この台地の縁辺にかつて太平洋の暖流が打ち寄せて」いたことの名残りだそうだ。


当時は岬の先端だったろう神社の高台から南を眺めると、荒川に沿って深く入り込んだ湾の対岸に赤羽台、飛鳥山(王子)、道灌山(日暮里)の連なりが見えただろう(今はその崖下を京浜東北線が走っている)。浅間神社は富士信仰だから、その背後には富士山が聳えているはずだ。


東京の縄文地図をつくった中沢新一『アースダイバー』によれば、「縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのためにそこには墓地をつくったり、石棒などを立てて神様を祀る聖地を設けた」。今はビル群にさえぎられて何も見えないが、神社の森の彼方に縄文人が見た風景を想像してみる。


 

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