March 29, 2023

別所沼へ

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20分ほど歩いて別所沼へ。毎年、公園の隅にあるこの古木の桜を見にくる。別の場所では何組もの家族連れやカップルが桜の下で飲んだり食べたりしているけれど、ここはいつもひっそり。散り始めているが、なんとか間に合った。4年前、抗がん剤治療中に来たときには、来年この桜を見られるだろうかと思ったが、今年も見ることができた。

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March 20, 2023

「芳幾・芳年」展

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カミさんを大学時代から知る友人が、一緒に墓参りに行こう、と言ってくれた。友達はありがたい。二人で静岡県三島へ行き早めに都心に戻ったので、用事のある彼と別れ三菱一号館美術館の「芳幾・芳年」展(~4月9日)へ。

見たかったのは芳年。芳幾ははじめて見る。三十年以上前、週刊誌で「大江戸曼荼羅」というグラビア連載を企画したとき、原稿をお願いした橋本治さんが芳年を取り上げた。「無残絵」と呼ばれる、歌舞伎を題材にした残酷で血糊したたる浮世絵。それ以来、この絵師に興味がある。

二人とも幕末の浮世絵師・国芳の門下でライバル関係にあり、どちらも維新を経て明治に入ってからも同じようなジャンルの絵を描きつづけた。一身で二つ世を経験した人物。それぞれの「無残絵」、古今の武者を描いた「武者絵」、明治の新風俗を描いた「開化絵」、新聞にゴシップ噺を描いた「新聞錦絵」、肉筆画、国芳晩年の人物シリーズなどが展示されている。

芳幾は正統派というか、うまい。国芳は凄い。静と動、動きの極まった瞬間を凍結したような緊張。画面から滲むエロティシズム。魔的なものへの偏愛。期待した「無残絵」が少なかったのは残念だけど、たっぷり楽しみました(写真は国芳「藤原保昌月下弄笛図」明治16)。

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March 16, 2023

里見龍樹『不穏な熱帯』を読む

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里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)の感想をブック・ナビにアップしました。

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March 15, 2023

エゴン・シーレ展

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東京都美術館の「エゴン・シーレ展」(~4月9日)へ。


 


エゴン・シーレは、十数年前にニューヨークにいたときメトロポリタン美術館やノイエ・ギャラリーで見たことがある。特に現代ドイツ・オーストリア美術専門のノイエ・ギャラリーのクリムトやエゴン・シーレは充実していて、絵を見たあと、クリムトやシーレが生きた時代のウィーンを模したカフェでお茶を飲むのが楽しみだった。


 


今回の「エゴン・シーレ展」は、シーレの学生時代から28歳で亡くなるまでの作品が「アイデンティティー(自画像)」「女性像」「風景画」「裸体」などに分けて展示されている。だけでなく、クリムトらウィーンで「分離派」に集まった画家の作品も併せて展示され、当時のウィーンの空気がよくわかる。展示作品の大部分がウィーンのレオポルド美術館所蔵というのだから驚く。


 


アカデミーの古典的教育に飽き足らず、クリムトと出会って一気に自分のスタイルをつくりあげる過程が一目瞭然。才能というのはこういうのを言うんだろうな。たくさんある自画像はすごいけど、見る側の歳のせいか、自分を突き詰める鋭さに息苦しさを感じ、はじめて見た風景画に惹かれた。モルダウ河畔の小さな町、クルマウの街並みと川面(写真)がいい。若すぎる晩年の作品にも変化が見えて、成熟したらどんな絵を描いたんだろう。

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March 14, 2023

御嶽神社

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娘の家族と御岳山の御嶽神社へ出かけた。低山でケーブルカーもあるとはいえ、病気してはじめての山。両足が痺れているので、ケーブルカーの駅から参道、鳥居の先の330段の石段を休み休み小一時間かけて上った。ようやく山頂の本殿まで。江戸時代末期に建てられたという御嶽講の宿坊に一泊。

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February 25, 2023

「松本竣介デッサン50」展

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群馬県桐生市の大川美術館へ「松本竣介デッサン50」展(~3月12日)を見に行った。

松本竣介という名前が記憶に残るようになったのは、竹橋の近代美術館の常設展だったと思う。ここの常設展は充実していて、展示替えごとに藤田嗣治の戦争画とか興味深いものが見られるけれど、松本竣介の「Y市の橋」はいつ行ってもたいてい展示されていた。都会の運河にかかる橋と背後の工場が印象的なモノトーンの画面で、橋上にたたずむ黒い人影を見ると、「橋上の人よ/どうしてあなたは帰ってきたのか」という鮎川信夫の詩を思い出す。両者とも戦争の影が色濃いことでは共通している。その後、神奈川県の近代美術館でも彼の絵を見る機会があった。

大川美術館が松本竣介の作品をたくさん所蔵していることを知ったのはつい最近。「デッサン50」は彼のデッサンを中心に、油彩も交えて展示されている。竹橋で見た「Y市の橋」のデッサンもあり(写真上)、油彩のための習作ではなく鉛筆と墨で描かれた独立した作品と思える。すぐ隣には松本のアトリエが再現されていて(写真下)、壁には油彩の「Y市の橋」がかかっている。この絵の油彩バージョンは、竹橋はじめ数点あるらしい。

この絵が描かれたのは1944(昭和19)年。総動員体制で「国防美術」が叫ばれたこの時期、彼はそこから距離を置いてゴミ処理場や工場や橋といった都会の裏側をデッサンしていた。

浦和から2時間かけて見にきてよかった。こういう充実した私設の美術館があるとは、桐生は豊かな町なんだな。

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February 15, 2023

藤原辰史『植物考』を読む

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藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス)の感想をブック・ナビにアップしました。

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February 14, 2023

鶴橋市場へ

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数年ぶりに大阪へ行ったので、鶴橋市場の韓国漬物の店へ。この店は、大阪に赴任していた四十数年前からの馴染み。「うちのおばあちゃんの味。おいしいよ」と言われ、それから通いつづけている。いろんな種類のキムチも旨いが、いちばん気に入っているのは岩海苔の漬物。唐辛子とニンニクが利いて、白米で食べると最高だ。

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February 02, 2023

大竹伸朗展

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会期末が近づいた「大竹伸朗展」(~2月5日、国立近代美術館)を見ようと竹橋に行ったら、美術館が宇和島駅になっていた。宇和島は大竹が拠点にしている場所。駅構内に展示があるという趣向か。会場は人でいっぱいだった。

 

20代の初期から最近作まで500点近い作品が、制作年代を追うことなく7つのパートに分かれて展示されている。「自/他」「記憶」「時間」などだが、まあ、はっきりした区別があるわけではない。初期のスケッチ、油絵、エッチングにはじまり、既成のイメージをモンタージュした圧倒的なスクラップブック、立体、大型の小屋などなど。動いたり、音が出たり。500点が渾然一体となって大竹伸朗というひとつの世界をつくりあげている。50年、スタイルは変われどずっと同じことをやってきたんだな。昭和の匂い、1950年代のアメリカやアジアの匂い。猥雑でチープで、まるで縁日の見世物小屋を見ているような楽しさがある。その一方で記憶の底に淀む、あるいは意識下にある、溶けあい変形した断片の集積を目に見えるかたちで提出されたような気もする。
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January 28, 2023

『シャドウプレイ』の陰影

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久しぶりに劇場で見た映画がロウ・イエ監督の『シャドウプレイ 完全版』。実に面白かった。

ロウ・イエといえば、天安門事件を題材にした『天安門、恋人たち』で中国政府から5年間の製作禁止、上映禁止の措置を食らっている。その後につくった『ブラインド・マッサージ』など3本は、どれもロウ・イエらしい実験的で完成度も高い映画だったけど、中国の政治や社会を正面から扱ったものではなかった。新作『シャドウプレイ』は、再び中国現代史ともいうべき時代を背景にしている。天安門事件の1989年から習近平が権力を掌握した2013年まで。改革開放から高度成長と不動産バブルの時代を生きた、男と女の野望と犯罪を巡る物語だ。

2013年、広州。林立するオフィスビル群をカメラが上空から俯瞰して移動していくと、高層ビルに囲まれて古びた住宅の一帯がある。カメラがさらに近づくと、瓦礫に囲まれた空間で少年たちがサッカーをしている。出だしのリズムとテンポが素晴らしく、一気に引き込まれる。この地区で再開発の賠償金を巡って住民暴動が起き、駆けつけた市の開発責任者タン(チャン・ソンウェン)が死体で発見される。刑事のヤン(ジン・ボーラン)が調べを進めると、再開発を請け負った不動産会社の社長ジャン(チン・ハオ)とタンはかつての仲間で、タンの妻リン(ソン・ジア)はかつてジャンの恋人であり、今は愛人となっていた。ジャンは台湾に渡って不動産業で成功したが、その共同経営者で一緒に広州に戻った愛人の台湾人アユン(ミシェル・チェン)が失踪していたことも分かる。

描かれてるのは不動産業者と役人の癒着、腐敗に絡む2件の殺人なのだが、この映画がよく中国で公開されたなあ、と思う。実際、完成してから公開まで2年、当局と検閲をめぐって長いやりとりがあったという。今回、「完全版」とうたっているのは、中国国内ではカットされた5分間が復元されているから。

今の中国ではリスキーなこの映画を製作するに当たって、ロウ・イエと、妻で今作の脚本家でもあるマー・インリーが考えぬいたんじゃないかな、と思うことがふたつある。ひとつは、映画の「現在」を習近平体制が生まれた2013年に設定したこと。権力を握った習近平は、この映画に描かれたような腐敗の摘発(という名目で政敵の排除)に乗り出した。だからこの物語は表面的には、習近平を批判することになっていないという理屈が成り立つ。もちろんロウ・イエの視線がそのような短いスパンの政治でなく、改革開放から現在までを貫く中国資本主義の暗部に向いているのは、映画を観た誰もが感ずることだが。

いまひとつは、ノワールというエンタテインメント仕立てにしたこと。犯罪、サスペンス、犯人捜しは映画の王道で、どの時代、どの国でも繰り返しつくられてきた。この映画は手持ちカメラを多用したり、現在と過去のいくつもの時制が複雑に入り組んだり、ロウ・イエらしい実験的なつくりは変わらないけど、ノワールという「ジャンル映画」のスタイルを取ることで、深刻な社会批判の映画でなく大衆的な娯楽映画という顔も持つことになった。無論、ロウ・イエが目指したのは社会批判のいわゆる「社会派」映画ではなく時代に翻弄される男と女の物語だから、ノワールになったのは戦術ではなく必然だったかもしれない。ここでは探偵役の刑事も第三者的な観察者でなく、リンの娘ヌオ(マー・スーチュン)と関係を持つことで欲望の渦に巻き込まれた当事者になってしまう。

6人の男と女が絡み合うドラマのなかで、広州市幹部の妻で、富豪の開発業者の元恋人、現在は愛人であり、ある秘密を抱えて生きるリンを演ずるソン・ジアのたたずまいが、哀しみを湛えて心に残る。台湾や香港も舞台になり北京語広東語台湾語が入り乱れるので、聞き分けることができるとこの映画の複雑な陰影がもっとよく分かるだろう。

原題「風中有朶雨做的雲(風のなかに雨でできた一片の雲)」は劇中で使われる曲のタイトルをそのまま。監督自身はエンディングで使われる別の曲「一場遊戯一場夢(一夜のゲーム、一夜の夢)」にしたかったようだが、検閲でダメと言われたという。The Shadow Play(影絵芝居)は英題。

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