May 22, 2018

横山大観展へ

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生誕150年と謳う「横山大観展」(~5月27日、東京国立近代美術館)へ行ってきた。今週いっぱいで終わるので混んでいる。

僕は近代日本画についてほとんど知らないけど、横山大観に興味を持ったのは柴崎信三『絵筆のナショナリズム』を読んだことから。この本は、第二次大戦の「総力戦」の一環として戦争絵画を描いた二人の大家、洋画の藤田嗣治と日本画の横山大観を取り上げていた。

藤田が「アッツ島玉砕」など西洋の歴史画を下敷きにした作品を描いたのに対して、大観はひたすら富士山と桜と海の自然風景を描いた。富士山や桜や海がただの自然風景でなく戦前の国粋主義のなかで象徴的な意味を付与されていたことを、大観はもちろん理解していた。それを見てみたかった。

戦争画の代表作は「山に因む十題」「海に因む十題」シリーズ。これは破格の値段で軍需産業に買い上げられ、大観はその代金で四機の戦闘機を軍に献納した。シリーズから7点が出品されている。絵そのものは、ひたすら美しい日本。むしろ戦後に描いた、富士と北斎のような波と龍の「或る日の太平洋」のほうが「神国日本」ふうなイデオロギーの匂いがする。

戦後、富士山や桜がナショナリズムの象徴から平和の象徴へと読みかえられたのは、大観の問題である以上に受け取る日本人の問題だと柴崎は書いていた。大観はそんな日本人の意識に黙って乗っていたと言えるだろうか。大観が描きたいように描けば、受け取る側はそれを読みたいように読んでくれる。藤田は追われるように日本国籍を捨てたが、大観は大家として生をまっとうした。

もっとも戦争期の絵画は少なく、明治・大正期のものが多い。大観という画家がどんなふうに生まれたか、全体像がよく分かる。新しい日本画を創造しようとする意欲が「朦朧体」と呼ばれるスタイルを生みだした。若いころの作品は西洋絵画に刺激を受けている。印象派のような筆づかいや、逆に伝統のデザイン的な琳派ふう、大観流の南画、なんでもやってきた人、なんでもできた人なんだな。

常設展で、写真の部屋でロバート・フランクが、別の一室で藤田嗣治や猪熊弦一郎(泰緬鉄道の建設場面。初めて見た)の戦争絵画が展示されているのが興味深かった。


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May 20, 2018

中島岳志『超国家主義』を読む

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中島岳志『超国家主義』(筑摩書房)の感想をブック・ナビにアップしました。


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NYの友人と嶋津トリオを聞く

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ニューヨークで知り合ったジェラルドは毎年のように東京にやってくる。大のジャズ好き。今夜は三軒茶屋のウィスパーへ。ここのオーナーは写真家の内山繁さん。扉の前の壁には内山さんが撮ったマイルスの、室内にはジャコ・パストリアスの写真が飾ってある。出演する嶋津健一さんと記念撮影。

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今夜は嶋津健一(p)、加藤真一(b)、今村健太郎(ds)のレギュラー・トリオ。いつものように自作曲とスタンダードを半々で。リクエストをどうぞと言われ、店名の由来と見当をつけ「ウィスパー・ノット」をリクエストしたら、作曲したベニー・ゴルソン自筆の楽譜が壁にかかっていて、びっくり。内山さんがゴルソンからもらったそうだ。ジェラルドのリクエストは「チェロキー」で、嶋津がものすごいスピードで弾ききって盛り上がり、ジェラルドは「Amazing!」。大満足の一夜でした。


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May 14, 2018

電車を待つ

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泊りがけの介護で実家へ行った翌朝、テイクアウトのカフェオレを飲みながら電車を待つ。昨夜来の雨もあがり、風が快く、緑が寝不足の目に染みる。欅の新緑も少し濃くなってきたみたいだ。


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May 13, 2018

『タクシー運転手』 カーチェイスもある光州事件

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A Taxi Driver(viewing film)

光州事件が起こったとき、同時進行ではほとんどなにも伝えられていなかった。ソウルでの戒厳令解除を求める学生デモや金大中の逮捕は大きく報じられたけれど、事件が起こって数日たってから、どうやら光州が大変な事態になっているらしい、という報道を読んだように記憶する。記者が直に光州に入っての報道ではないから、映像はなかった。この映画の主人公、ドイツ通信社の記者が撮影した映像を見たのは、だいぶたってからだったように思う。

全羅南道にある光州の学生市民が立ちあがったのは、同じ全羅南道出身の政治家、金大中が逮捕されたことが大きかった。全羅道は、なにかといえば慶尚道出身者が多い朴正熙政権に差別されてきた歴史があるわけだし。

立ちあがった学生・市民に対し軍が発砲・鎮圧し200人以上の死者・行方不明者を出したという事件の全貌が明らかになったのは、盧泰愚政権によって不十分ながらも民主化が進められた後だった。『タクシー運転手 約束は海を越えて(原題:택시운전사)』は、そんな韓国現代史の重大事件を、事実に基づきながら笑いと涙、おまけにカーチェイス(!)まである王道のエンタテインメントに仕立てあげた。そこが面白い。

ドイツ通信社の日本特派員ピーター(トーマス・クレッチマン)は光州でなにかが起こっていると聞き、宣教師と身分を偽って韓国へ入る。ピーターを乗せたソウルのタクシー運転手マンソプ(ソン・ガンホ)は、小学生の娘をアパートに残したまま、なにもわからずタクシーを走らせる。光州では軍がデモ隊に発砲するなか、2人はタクシー運転手のテスル(ユ・ヘジン)や学生のジェシク(リュ・ジュンヨル)と行動を共にすることになる……。

親一人子一人で暮らすマンソプは家賃も払えず、壊れたサイドミラーを直すのも値切ったり、金のために仲間を出しぬいて客のピーターを奪ったり。そんな情けない男をやらせればソン・ガンホの独壇場。ピーターが事件を追う緊迫と、マンソプの人情喜劇ふうな笑いが並行して描かれる。互いにどこまで信用していいかわからないピーターとマンソプの掛けあいも、定型どおりだけどガンホの大げさな身振りとクレッチマンの無表情が対照的。ソウルでは学生デモに顔をしかめていたマンソプも、光州の惨状を見てピーターのことを放っておけなくなる。人情に厚く人のいい光州人をユ・ヘジンが、音楽好きな大学生をリュ・ジュンヨルが演じ、これも「寅さん」映画に出てくる面々みたい。

マンソプはアパートに残した娘が心配で一人ソウルへ引き返すが、途中でタクシーをUターンさせ光州へ戻る。ここでのソン・ガンホは感情を抑えた演技。画面は光州での弾圧のすさまじさをたっぷり見せる一方、軍警察とマンソプたちの追っかけもある。光州からの脱出では、テスルたち光州のタクシーが2人を助けてカーチェイス(もちろんフィクション)をたっぷり見せる。はらはらドキドキのうちに、観客は光州でなにがあったのかを知る。

チャン・フン監督はキム・ギドクの助監督を務め、デビュー作の『映画は映画だ』は映画俳優とヤクザの友情を絡めた映画づくりの話だった。『高地戦』は朝鮮戦争休戦時刻ぎりぎりの南北の戦闘を描いて、いい映画だった。『タクシー運転手』もそうだけど、立場の違う男たちの葛藤と友情というテーマが通底しているように思う。韓国映画で目を離せない監督の一人だ。


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シュンギクの花

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ミニ畑のシュンギクを摘むのが遅れて花が咲いてしまった。咲くまえの蕾は葉と一緒にサラダで食すると苦みがあってうまい。去年の秋、種を蒔くのが遅れて冬をこし、春になって成長した。根を残して切るとまた生えてきて、これで三度目。


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May 01, 2018

『女は二度決断する』 憎悪の連鎖

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In The Fade(viewing film)

僕はドイツ語を知らないので『女は二度決断する(原題:Aus dem Nichts)』の原題をどう訳したらいいのか分からないけれど、英語タイトルのIn The Fadeは「虚無のなかで」といった意味になるだろうか。

ところで、この映画のポスターは日本はじめどの国もほぼ共通して、上の図柄(ドイツ語版)が使われている。このショットは、ファティ・アキン監督が写真家に「『タクシードライバー』みたいなのを」と注文して撮影したものだそうだ(どこかのサイトでそう語る監督のインタビューを読んだのだが、検索できない)。監督は、この映画の主人公のカティヤ(ダイアン・クルーガー)にどこかしら『タクシドライバー』のトラビス(ロバート・デ・ニーロ)を重ねているのかもしれない。

ファティ・アキン監督はハンブルク生まれのトルコ移民二世。これまでもトルコ系ドイツ人としてドイツとトルコという二つの国家と民族にまつわる映画をつくってきた。『女は二度決断する』はその最新作。

カティヤはクルド系トルコ人ヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚し、男の子がいる。ヌーリはハンブルクのトルコ人街で会社を営み、幸せな家庭生活を送っている。ある日、事務所の前に爆弾が仕掛けられ、ヌーリと息子が犠牲になる。犯人はネオナチのカップルだったが、裁判でギリシャ人極右が二人にアリバイがあると証言し、カップルは無罪になる。カティヤは怒り、絶望して……。

映画は三つのパートに分かれ、サスペンスのスタイルで語られる。最初のパートは事件。カティヤと夫と息子との生活が突然に破壊される。警察はテロよりトルコ移民社会内部の政治や麻薬のトラブルを疑う。ヌーリには麻薬がらみで服役した過去がある。また警部がカティヤに「ヌーリはクルドか?」と聞くのは、トルコではクルド人が徹底的に弾圧され、両者が対立している現実があるからだろう。事件が起こり、白人であるカティヤの両親とクルド系のヌーリの両親がカティヤの家で顔を合わせると、互いに不信感がつのる。事件をきっかけに、カティヤの周囲がきしみはじめる。

次のパートは裁判。ギリシャの極右が、爆発があった日、カップルはギリシャにいたと証言する。夫と息子を失ったカティヤが麻薬で悲しみをまぎらわせていたことから、犯人の一人を見たというカティヤの証言の信ぴょう性が疑われる。犯人の男の父親が、息子はネオナチで爆弾の材料を持っていたと証言するが、弁護士はその証言の小さな穴を衝く。

最後のパートは復讐。カティヤは一人で、無罪放免されギリシャに逃げたカップルを追う。最初のパートでのハンブルク路上のリアルさ、次の緊迫した法廷ドラマから一転、地中海の青い海へという転換が効いている。カティヤはカップルのトレイラーに爆弾を仕掛け、しかし逡巡し、いったんは爆弾を回収するのだが……。

最後、地中海をバックに爆弾が破裂する場面で『気狂いピエロ』を思い出した。自分の顔にペンキを塗り、自ら爆弾に火をつけたジャン・ポール・ベルモンド。もっとも、ふとした気まぐれが生んだ偶然のような結末の軽みは、この映画のダイアン・クルーガーにはない。カティヤの怒りと悲しみのあまりの行動。

その思いの深さは十分に描かれているし、理解できるにしても、この結末は憎悪と報復の連鎖をまたひとつ積み重ねただけのように思える。そのことに対するアキン監督の視線が、例えばトラビスに対し感情移入すると同時にそこから身をはがすマーティン・スコセッシ監督の複雑な視線のようには感じられないのが気になった。


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April 30, 2018

『ワンダーストラック』 無声映画のスタイル

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Wonderstruck(viewing film)

トッド・ヘインズ監督の映画でいつも感心するのは、その時代の空気が見事に再現されていること。『エデンより彼方に』は1950年代東部の都市に住む裕福な白人住宅街が舞台になっていた。「豊かなアメリカ」の風景の中で白人主婦と黒人庭師の恋がメロドラマのタッチで描かれる。ボブ・ディランを複数の役者が演じた『アイム・ノット・ゼア』では、女優ケイト・ブランシェットがボブ・ディランそっくりの扮装で1970年代の空気を生きていた。『キャロル』では1950年代のニューヨークの街が再現され、ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラーの女性同士の愛を彩っていた。

『ワンダーストラック(原題:Wonderstruck)』では二つの時代が舞台になっている。1927年と1977年の、ともにニューヨーク。二つの時代の少年と少女の物語が並行し、遂には一つになる。そのときの驚き(ワンダーストラック)は、こういう瞬間が映画を見る快楽だなと感じさせる。

1927年。ニュージャージー州ホーボーケン(ハドソン川をはさんでニューヨークの対岸)に住む少女ローズは耳が聞こえない聴覚障害者。裕福な家庭だが母は離婚して不在、無声映画で女優リリアン・メイヒューを見るのが唯一の楽しみ。孤独なローズは、リリアンに会いたい一心でフェリーに乗り、ニューヨーク自然史博物館に勤める兄を頼ってニューヨークに出る。

1977年。ミネソタ州に住む少年ベンは、父は行方不明、母は事故死。引き取られた叔母の家で落雷のため聴覚を失う。母の遺品で、父から母宛てに「愛してる」と書かれたニューヨークの書店の栞を見つけ、父を探そうとニューヨークに旅立つ。

1927年のパートはモノクロ、1977年のパートはカラーと描きわけられる。主人公の少年少女はともに耳が聞こえない設定。だから沈黙や、言葉でなく身振りや表情や手話でものごとを伝える場面が多くなる。ということは、ローズが見ている無声映画の世界に近くなる。実際、モノクロのパートは意図的に無声映画の手法が使われる。場面と場面をつなぐのは音楽。カメラも移動やズームはなしで、固定カメラで撮った短いカットが積み重ねられる。

動かないカメラが1977年になると動きだし、カラーになり、街路を歩くベンを追う。70年代のニューヨークはベトナム戦後で景気が悪化した時代。アフリカ系の住民はアフロヘアに原色の服装で闊歩しているが、街の空気はすさみはじめているようにも感じられる。このパートはネガのカラーフィルムで撮影されており、いかにもこの時代の猥雑な雰囲気が懐かしい。

ローズもベンも、時代は違うが自然史博物館に引き寄せられる。自然史博物館は『イカとクジラ』でも重要な役割を果たしていたけど、ここの有名なジオラマが二人を結ぶ鍵になる。時代を超えて、二人が同じ隕石にそっと触れるショットがいい。

二人が出会い、その関係が明かされるのはクイーンズ美術館にあるニューヨークの細密なパノラマ模型の前で。1977年のローズ(ジュリアン・ムーア)はベンに、ジオラマ製作者だったベンの父親のことを語る。映画の冒頭、ベンがオオカミの夢を見ているショットがつながってくる。

原作は『ヒューゴの不思議な世界』と同じブライアン・セルズニックの小説。どちらの映画も少年少女の目から見たこの世界の驚異を見事に映像化してみせた。トッド監督は人種差別や同性愛、障害者といったテーマをメロドラマや少年少女小説に巧みに溶かし込んで、さりげなく浮かび上がらせている。


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April 22, 2018

鶴橋の市場へ

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ボランティアの用事で大阪へ行ったので、鶴橋駅前の市場へ。ここへ来たら必ず買う岩ノリと、ホタルイカをネギ、ニラ、トウガラシで漬けたものがおいしそうだったので。

この漬物屋のおばちゃんとは30年以上の顔なじみ。当時、鶴橋で週1度、韓国語を勉強していて、帰りにここで漬物を買っていた。元気そうで、なにより。


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『さよなら、僕のマンハッタン』 父と息子の物語

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The Only Living Boy in New York

マーク・ウェブ監督はミュージック・ビデオの出身らしい。『さよなら、僕のマンハッタン(原題:The Only Living Boy in New York)』には、1960~70年代の音楽がいっぱい散りばめられている。というより、その時代の音楽にインスパイアされた映画といってもいいくらい。

そもそもThe Only Living Boy in New Yorkというタイトルからして、サイモンとガーファンクルの曲から取られている。この曲の歌詞は「トム」という男に呼びかける形になっているが、トムはこの映画の主人公トーマスの愛称だ。NYでひとりぽっちの少年。それからルー・リードの「パーフェクト・デイ」。ジェフ・ブリッジス(僕と同年代)の姿にこの曲がかぶさると、1970年代の空気が蘇る。さらにボブ・ディランの「ジョハンナの幻」。映画のなかで主人公が憧れる年上の女もジョハンナだ。懐かしいプロコル・ハルムの「青い影」、ジャズのデイブ・ブルーベックやビル・エヴァンスも流れている。

みんな「あの時代」の音。それにひたり、甘酸っぱい物語に身を委ねていれば、ま、たまにこういう映画もいいか、という気分。

トーマス(カラム・ターナー)は、上品なアッパー・ウェストサイドで育ったコロンビア大学の学生。家を出て、雑多な人種が住むロウワー・イーストサイドのアパートで暮らしている。ガールフレンドのような友だちのようなミミ(カーシー・クレモンズ)は、トーマスと別れて外国に行こうか迷っている。トーマスの隣の部屋に初老のW.F.(ジェフ・ブリッジス)が引っ越してくる。ある日、トーマスは出版社を経営する父イーサン(ピアース・ブロスナン)が女性と親密にしているのを見てしまう。その女性、ジョハンナ(ケイト・ベッキンセール)の後をつけ、知り合いになったトーマスは年上の彼女に惹かれていく……。

と書いてきて気づいたけど、これはサイモンとガーファンクルの名曲がフィーチャーされた『卒業』のヴァリエーションだなあ。もちろん、それをなぞるわけでなく、こちらは「父と息子」の話。トーマスは作家志望だが、書いたものへの父の評価は「よくある話」。でも、作家であることがわかったW.F.は、トーマスの書いたものに才能があると評する。さらにはトーマスの両親とも古い知り合いであることがわかってくる。

両親とW.F.の過去にはちょっと無理があるけど、ま、リアリティを求めるのも野暮というもの。アッパー・ウェストサイドの典雅な褐色砂岩の住宅街。ロウワー・イーストサイドの、下層階級や移民や貧乏アーティストが暮らすアパートメント。ダウンタウンの、チャイナタウンなどの街並み。ニューヨークという魅力的な都市を舞台にした苦く甘い青春物語を楽しめばいいんだろう。僕も10年前に住んだニューヨークを懐かしみながら、気分だけは若くなっていた。それ以上の、またそれ以下の映画ではないけれど。


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